2012年3月22日木曜日

渡辺幸重氏の講演~

3月18日(日)13:00~16:00、フリージャーナリストの渡辺幸重さんの講演会があった。
「私たちはフクシマ後をどう生きるか」

Аgora子ども美術工場にさまざまな人が集まった。
浜岡原発に近い御前崎市の人、無農薬栽培をしている人、お茶農家の人、地域医療を考えることをしている人、大江健三郎さんと反原発の集会で歌を歌ってきた人、新聞記者、学生、医師、看護師、主婦・・・・
渡辺さんの講演は、福島県広野町の写真を何枚か見せていただきながら進められた。
広野町は、福島第一原子力発電所から20キロ圏。
のどかな町だ。
その町には、事故後、住民はいなくなり、民宿、旅館はすべて原発作業員が寝泊りしている。
サッカーのメッカ、J ビレッジのサッカー観戦場は、原発作業員の単身寮が並ぶ。
パチンコ屋やスーパーの大型駐車場は、原発作業員の派遣業者が借りている駐車場となっていた。
渡辺さんが近くの旅館に泊まったけれど、サービスは悪く、寂れた状態。
朝ごはんは、干物にお味噌汁にご飯・・・そのご飯をたくさんの人が残していた・・・
どうしてだろう?放射能を気にしてか?食欲がないのか?・・・どうしてと疑問だけが残ったそうだ。
国のモデル事業として、除染作業を行っていたが、その取材は応じてくれなかったそうだ。
巨大なキャタピラがたくさん動く国のモデル事業。この大掛かりなモデル事業を他の自治体や個人ができるかどうか?...
水の除染もやっていたけれど、意味があるのかどうか・・・
20キロ圏の境で通行止めとなり、そこから中に入るには防護服が必要である。
朝早く何台ものバスに白い防護服を着た人たちが、20キロ圏内に入っていく。そして2~3時間してから防護服を脱いだ人たちが、またバスで帰ってくる。その光景が毎日続く。
単身寮の近くのごみ置き場には、家庭ごみの袋がいっぱいに山済みされていた。そのごみは燃せない。
人間が生活するということは、ごみを出すわけで、それに加え、放射能汚染のあるごみは、燃すこともできず、行き場をなくす。
この様子は広野町とは反対側の南相馬市も同じことがいえるそうで・・・
原発近隣の町は代替エネルギー、原発廃炉、内部被爆の研究施設をつくり、ここで生きていく手法を考えているようだが・・・原発事故のために、町のコミュニティーは崩れ去った、広野町、南相馬市、大熊町、双葉町・・・。
生活するには、コミュニティーの再生が大事だと渡辺さんは言う。しかしこのままでは、コミュニティーの再生は難しく、生き方を変えていく必要がある。原発労働者を犠牲にしてまで使うことの必要があるのか・・原発は。
今、フクシマ後ではなく、まだまだフクシマ中なのである。と・・・


その後それぞれの原発事故に対する思いや自己紹介をしながら交流を図る。
特に興味深い話は、浜岡原発の近くの御前崎市の方の話だった。
その方は、浜岡原発のことについていろんな方の話を聴き続けた方だった。2000人の方に・・・
ただ原発の体制は停止できないように話を持っていく体制になっている。どうせ・・・
いくら廃炉になっても核の危険性はぬぐえない。放射能の問題は事故が起きたから怖いのではなく、今だって動かし続けている間に微量の放射能はでている・・・それに浜岡は、活断層の上にあるので、もしあのような地震が起きたら逃げようがない・・・そんな風に悲観されていた。
確かに原発立地の町は、誘致の問題で潤っている町の有り様があり、なかなか住民もしくは市長、町長と電力会社とのつながりを断ち切れない関係性にあるようだ。原発反対の意思さえも多数決の重みに押され、個人の声を上げられない現状があるそうだ。原発事故前から、原発立地の市町村でも反対意見の人はいたわけだが、平和利用といい、原発からの融資で潤う町の雰囲気のなかでは、反対することが肩身の狭く、声を上げることさえ難しい。
しかし、今回の原発事故で、意識を持った子どもを持つ母親たちは、声を上げることができたという。
悲観的にならざるを得ない今までの原発問題ではありますが、悲観していても明日はないわけです。
私たちは、もっとシンプルに生き、今までどおりの生き方をすることを推し進めるのではなく、生活、生き方を変えていくことがこれからのフクシマ後を生きることとなるのでしょう。
アゴラの先生は言います。「怖いものをちゃんと怖いといいましょう。その生き方が何を選択し、何を手放すか・・・、自然の循環の中で生活することは人間本来の感覚を目覚めさす事であり、それがこの里山にはちゃんとあるのです。」と。
最後に渡辺さんは、心と命の大事さを言われました。
「本当に大事なものはたくさんあるわけではありません、ほんの少しで生きていけるのです。」と。
それが「心と命」

あるおじさんが言いました。「普段は社会の情勢、原発、国のあり方・・・さまざまなことで怒るとこばかりでした。けれど、今日のこの時間は、うれしかった。ちゃんと考えている方々がここにいた、充実した時間でした。ありがとうございました。」と
新聞記者の方も、「ほんと良かったです。わかりやすい講演会でしたとおっしゃっていました。
お茶農家の方も御前崎の方も笑顔で帰っていかれました。

原発の問題は、本当に難しい問題のように見えます。
行政、企業、お金・・・さまざまな絡みを含んでいます。
その後ろを見てしまうと何が何やらわからなくなります。
でも基本は、自分はどういう生き方を選択するか?怖いものは何なのか?大事なものは何なのか?そのことをちゃんと思考し、それに即した生き方を選択することであり、そのいう生き方をしている中で自分独自のコミュニティーを持って行くことなのかもと思います。
                                                                        
渡辺さんの講演会にはもっとたくさんの方にきてほしかったと私は、渡辺さんにいました。
すると渡辺さんは「いいえ、これくらいが良かったのです。たくさん来てもらうには、駅の近くとか交通便のいいところの施設を借りればもっと人は集まったでしょう。でもこの里山のこのАgoraで話をするからいいのですよ。フクシマ後の話をして、エアコンガンガン利いた部屋で話をしたってなんも説得力はないのです。僕たちの生き方をちゃんと示すことがこの講演会の趣旨ですから。」と。

マーシャル諸島に行き来し、被爆した人たちと関わり、そして今福島を行き来し、フクシマを考える渡辺さんは、本当に優しい目の物腰柔らかな人でした。その優しさの中に強い意志を持ち続けて活動されている渡辺さんに感心するばかりの私でした。

by 寺田
                                                                        


                                                                                                                                                                                                              

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