2013年11月6日水曜日

中原浩大氏の個展「自己模倣」


美術家で京都芸大・彫刻科教授・中原浩大氏の個展を見に行った。
岡山県立美術館にて行われていた個展・「自己模倣」
11月4日は最終日であり、学芸員の方と中原浩大氏とのフリートーク会もあった。
それにあわせて、参加した。
中原浩大氏は、現代美術界では歴史に残ると言われていれる人で、美術手帖という雑誌ではよく取り上げられている人である。
二十代は看護師として、その後は主婦として生きて来た私にとって、そんなにすごいと言われる中原氏を知る機会なんぞなかった。
知ったのは、KAMEの翼プロジェクトのサポートをする事になった4年前。
KAMEの翼プロジェクトを発起するに至り、若者アーティストをサポートする際、選考される若者は、発起人の渋垂氏の信頼置ける二人に!ということで、2010年12月京都芸大の彫刻科の研究室でその話を詰めた。
そこで、中原浩大氏と日比野克彦氏に初めて会った。
その日まで、中原浩大氏と日比野克彦氏の過去の資料を渋垂氏に渡され、説明され、二人のアーティストについて思考した事を思い出す。
2010年、夏、京都近代美術館では、中原浩大氏を含む京都芸大と京都大学大学院医学研究科との共同研究の作品展示がされていて、そこで間近で中原浩大氏の作品を見て、触ってみた。
その後KAMEの翼プロジェクトへのリーフレットの絵や、文章を読んで、彼ってどんな人なんだろうと思考した。私はKAMEの翼のブログや新聞を担当しているため、KAMEの翼プロジェクトの趣旨やそのプロジェクトに参加してくださる方々の事を他者にちゃんとわかりやすく伝える役割が有るために、彼等を知る作業は、その頃から始まった。
そんな矢先、2011・3・11が起きた。
大きな震災は、私たちに問うた。
2011年5月13日〜17日までKAMEの翼の静岡メンバーと被災地の宮城県牡鹿郡女川町へ支援に行った。その時京都から中原浩大氏と黄瀬氏が私たちと加わり、女川町の第4保育所で「カメパオ」作成をした。
阪神淡路大震災後思考され、子どもたちの居場所を想定して作られた「カメパオ」を初めて実際の被災地で制作することになった。そこに私もいさせていただいたわけである。(ちなみに私はカメパオに中で遊ぶおくるみやクッションなどの縫い物の作品を大量に作ってもっていった。)
中原浩大氏は、カメパオの制作図面を丁寧にファイルして女川の保育士さんに渡した。
そのファイルされた図面や資料は、本当に精密であり、丁寧なものだった。
美術家というと、岡本太郎を私は連想する。なんか大胆でかついい加減で、本人しかわからない殴り書きのようなもんか・・・と美術家を自由人=いい加減という見方で見ていた。(岡本太郎さんには悪いがあくまでもイメージで)
しかし美術家(いろいろいるだろうが)って本当に精密で丁寧で、設計士以上に正確なのかもしれないと思った。
「ちゃんと見なさい」と渋垂氏にずっと言われ続けた私は、彼等が本物アーティストと呼ばれる由縁をずっと探していたのかもしれない。
そして崩壊された宮城県石巻市のホテルの一角で中原氏と仲間と寝袋を並べて寝た。
こうして私は初めてそこで「カメパオ」を目にして実際に入り感じる事が出来た。
さて、そういう経験を経て、今回の中原浩大氏の個展「自己模倣」を見に行った。
岡山県立美術館の玄関の窓越しに、中原浩大氏の写真とおめでとうの絵の作品が大きく一面を飾っていた。
有名人ってすごいな〜って私は思った。
そして中に入ると、まずトランプリンのような作品がで〜ん!とあり、そして会場に大きなレゴの作品が2体並べてあった。
「お〜!これがかの有名なレゴの作品か!」とちょっとうれしくなった。
規則的なのか不規則なのか・・・赤をベースに白、青、黄色のレゴブロックで組まれ、中は空洞の長細い大きな作品である。
こんなに大きな作品をつくっているときの中原氏の頭の中、心の中をのぞいてみたいと思った。
今回会場を撮影する事は出来なかったので、資料の中からの写真を添付するが、下の作品が2体会場入り口に並んでいるのである。




そして様々な過去の作品とそれを模倣した作品が並んでいる。
渋垂氏に説明され、美術手帖やいろんな資料を思い出し、実際目の前に彼の作品が有る事になんだか言われぬ幸福感に浸った。
といっても私は美術の事は全くわからない。
だが、20年以上前に美術評論家が絶賛した作品を見れた事に、私の知らない歴史に触れたというか、タイムマシーンに実際のって過去を見れた面白い感覚に包まれたのである。
KAMEの翼プロジェクトは、20年前の静岡県島田市であった「紙わざ大賞展」がきっかけで出来たプロジェクトだと言ってもいいのだろう。
「紙わざ大賞展」の発起人の一人が渋垂氏で、その会場には審査員として、現代美術評論家の(故)中原佑介氏、国際的デザイナーの(故)福田繁雄氏がいて、招待作家として日比野克彦氏、中原浩大氏がいた。そこに今活躍中の光のアーティスト高橋匡太氏は、大学院生としてその場に参加していた訳である。
東海パルプ工場の工場内で9号機を見て、制作をする作家たち。


紙を使う美術家は、何気なく日常にある紙の正体を見て作品を作るべきだ!と渋垂氏は言った。
紙を生み出すには大量の水と大量の化学薬品を使い、汚染物質を川や海に流す・・・この行程を知ってこそ美術家は、作品を作る意味があると渋垂氏はいっていた。
たしかに工場内にいる作家たちと、紙の材料に使われる大量のチップ材の上でインタビューする日比野氏と中原氏。
彼等は、突き詰められたんだ。(あの頃・・・)
その当時の事を振り返り、高橋匡太氏は、あれが僕の原点だとKAMEの翼プロジェクトのフリートーキングの時に毎年その頃の話をしてくれる。
学生だった高橋さんにとってもそれだけ思いっきり思考し、思いっきり制作し、思いっきり表現した日々だったんだと思った。
「自己模倣」でも紙わざ時代のものがたくさん展示されていた。
東海パルプの工場に彼の家族の写真があり、そこからいろんな殴り書きのような色鉛筆の絵は、わたしにとってすごく印象的で、あの当時の若き中原氏が思いっきり思考し、はじけて生み出されたんだな〜ここの作品の数々は・・・と思った。

この椅子は、浜岡カントリーで展示された作品で、「これも作品なん?」と渋垂氏に聞いた。
「これは乗ってみないとわからない。乗ってみて初めてこの面白さ、心地よさ、不思議さに気がつくんだ」と言った。
そうなんか〜・・・現代美術ってほんとよくわからない。
固定した概念がないのだから、それを何でもいいとこの静岡のある美術を支援する団体は、「現代美術だから何でもいい!だから美術をわからない私たちでも出来るんです」と語っていた事を思い出す。
でもその団体がいう「何でもいい」が本当は何でもいいのではない事を感じたい訳である。
「この椅子は、体感してこそいい!と渋垂氏はいった。
見るだけでなく、触ってみて、体感して感じる作品が現代美術の幅なのか・・・
一度座ってみたいものだと思った。
そしてこの作品をみて、去年KAMEの翼プロジェクトの選考作家の加藤元さんの去年の作品を思い出した。
椅子の上に糸で吊るされた棒。扇風機の風が流れ、その糸に吊るされた棒がクルンクルンと回る。
変な違和感と、なんか不思議な感覚を感じたな〜って記憶を辿る。
加藤さんは、今回の中原浩大氏の作品展を見てどう思ったのだろうか?そんな事を思った。

そこには、テレビモニターがいっぱいあって、そこに唇が異様な動きをしているアニメーション?が映し出されていた。
あ!・・・加藤さんと同じく選考作家だった大見明子さんの作品を思わず思い出した。
大見さんは、アゴラの子どもたちの17年の間溜められた絵を題材にして、アニメーションで、子どもたちの静止画を動かした。その作品がモニターにいくつも映し出されていてた。そして永遠に動き続けていた。
大見さんと中原浩大氏とは違うけれど、モニターをいくつも使って作品とする表現方法は、有るんだな〜って思った。
こうして見ていくと、中原浩大氏が、いかにいろんな表現方法をあみだして、アートの領域を変えていったのだと思えてならない。
作品なのか、コレクションなのか、実験機器なのか、発明家なのか、アルバムなのか、単なるオタクなのか・・・その不確かさが無限を生み、固定概念を持たない。
ただ「変なの」・・・という言葉でも言い表せるものなのかもしれないが、この「自己模倣」という個展を見て思った事は、「変なの」はたいへん真面目で、たいへんスケールの大きい、たいへん綿密な作りで、たいへん丁寧で、たいへん今を思考した作品を作られている人なんだという事。
学芸員とのフリートークでは「反省会」と称して話が勧められた。
その中で、中原浩大氏の苦悩が見て取れた。
学芸員は、「大変ポジティブで、前向きなので・・・」と自分の事を言っておられたが、そのポジティブとか、前向きというのは、自分への解釈であって、実は都合がいいすり替えをしているだけなのでは…と思った。
アーティストは、作品を誠心誠意自分の思いのままに作るのである。
だから会場にあわせて作るのではない。
作品展示をする場所が先で、作品が後となる場合も有るだろうが、公共施設の美術館は、作品が先で、それを展示したいと意向を示すのが美術館であろう。
しかし、今回の中原氏の作品は、美術館側の誤算があって、作品をありのままの状態で展示する事が出来なかった。
そして資金的な負担も中原氏に来てしまった結果となった。
依頼があって、作品展示をする。
作家の意向を何処までくんで表現の場とするか・・・
展示された作品は、見る側とすれば、これが中原浩大氏の作品だと思ってしまう。
しかし、今回の個展は、天井の高さや天井の強度、展示場所と公共美術館としての条例問題を含めて、未完の状態の展示となんてしまった事を聞いて、作家の苦悩を感じるのである。
美術館は、なぜ中原浩大氏の「自己模倣」を展示したかったのか?
瀬戸内国際芸術祭にあわせ、岡山出身の作家である中原浩大氏の個展を提示した美術館だった。
だとしたら、地元出身の作家の作品をもっとちゃんとリサーチし、作家の負担も考慮したうえで、この仕事に望んでほしいとこんな素人の私でも思ってしまった。
痛手を受けるのは、いつも公ではなく、個人である。
手を抜く作家だったら、いいよいいよと、その美術館という大舞台での展示を大喜びするかも知れない。
しかし、そこに自分の負担をいとわないのが、本物作家なんだと思うのである。
なぜ、作品を作るのか?なぜ表現をするのか?・・・・
KAMEの翼プロジェクトで若者を選考する立場にある中原氏や若者にエールを送る先輩アーティストの高橋氏は、名声のためでもなく、金のためでもなく、自分の為に表現するのである。
売れるために存在する、金のために存在するアーティストは、もうすでに自分を見失っているのだろう〜・・・


by terada

ps:渋垂氏は、思いっきり試す機会を若者に与えたいと思って、KAMEの翼プロジェクトを発起した。

原点を辿ると「紙わざ大賞」は、若者に思い切り試す機会を与えた企画だった。
島田市と東海パルプと様々な協賛企業が支えた企画だった。
だから確かに思いっきり表現するための資金はあった。
KAMEの翼プロジェクトは、あの当時とは違う、一人一人の支援により成り立っている。若者に思いっきり試してもらえる機会を、利権なしで一人一人の思いで若者を支えるのである。
規模は、いろんな企画展からみれば、小さいかもしれない。
でもなぜ、利権を外し、個人のサポートのみに限っての企画を思考したか・・・
それは、制作する若者が純粋に自分を表現してほしいという事と、コマーシャルとかいろんな事で身動きできないようにならない事、そして支えているのは、若者を純粋に支えている人たち個人だという事。
支える人たちがもっとわかりやすく、もっと身近にそして、その支えてられている思いも感じてほしいのである。その事は、作家からしては、重い話かもしれない。単純に資金を得て思いっきり好きなように試させてほしい。自由に〜という気持ちはわかる。
けれど、作家も人の思いを感じてほしい。
KAMEの翼プロジェクトは、阪神淡路大震災から始まった・・・子どもたちの居場所、子どもたちを守る事。カメ型シェルター「カメパオ」から渋垂氏は、里山のアゴラ子ども美術工場を作った。そして15年・・・子どもたちは巣立つ・・・守られていた子どもたちは自立していく。そこに「紙わざ」の思いっきり試した若者を重ねたんだ。
思いっきり試す機会のない若者へ、渋垂氏の出来る範囲のサポートでした。
支援が多ければ、規模は大きくなる。支援者が少なければその範囲になる。
これは理想に近い発想です。その理想を渋垂氏が現実化した。
今まで制作された若者は、いろんな思いを抱いていると思いますが、純粋にサポートしているKAMEの翼です。
そしてなぜ里山なのか・・・人が行き交うところで展示すれば人はたくさん来るでしょう。美術館ならすごいでしょう。でも里山…田舎だという事は、今の社会を本気で思考しようよ!って言うメッセージなんです。この原発事故がなぜ起きた。なぜ今社会は大変なのか・・・優しさの欠除が、この社会。
中原浩大氏が「自己模倣」で語った事・・・思いっきり試す機会を与えるのも優しさなんだという事だと私は思うのです。







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