2012年8月14日火曜日

KAMEの翼プロジェクト、福島報告&フリートーキング NO1



8月11日、KAMEの翼プロジェクトのイベントが行われた。
AM11時〜12時までフリージャーナリストの渡辺幸重氏の「私たちはフクシマ後をどう生きるか パート2」の福島報告があった。
資料では、浪江町の避難所で関わった方々から聞いた貴重なお話がたくさん綴られていた。実際の報告会は、原発事故により人々がどのような状況になり、そして社会はどのように変化して今にあるのかという事をテーマにして進んでいった。
去年の10月からおまかせ民主主義からの変化が起こっている。
つまり反原発運動が各地で繰り広げられている。
19、20歳の若者が経済産業省前で、「原発反対」のハンストデモを始めた。
そのデモは、抵抗なしのデモだった。
その若者の態度に触発され、60年安保の時代の方々が、テントを立てた。

そのうちここが、ベースキャンプになり、今も尚皆がここを訪れる。
7月16日、代々木公園で「さよなら原発10万人集会」があった。
その日は、地球で初めて核実験が行われた日だった。
その後の毎金曜日に首相官邸前に人々が集まり、原発反対の運動が繰り広げられている。その輪はどんどん広がりを増している。
そして話は、福島へと・・・
福島の浪江の方々の仮設住宅(郡山市)へ渡辺さんは行った。
そこには5、6カ所の仮設住宅が建ち並ぶ。コンテナを改造したいでたちで、ここに放射能から逃げて来られた方が生活されている。
浪江は未だ傷は癒えず、田畑は荒れ、未だに24マイクロシーベルトの線量が測定された。
五時間の故郷への帰還が許されているが、二三時間ぐらいいて帰るという。長くいてもこの先のめども立たず、荒れ果てた故郷を見ている事がつらいのだという。
ただ、耕作をせず、放っておくとますます田畑は荒れる一方なので、耕作を始めないと・・・と言う意見もでているという。

同時に渡辺さんは、ロンゲラップ島に行き来している。
ロンゲラップ島は、1954年3月1日水爆実験が行われた。同時にそのころその辺りを漁業のため通過していた第五福竜丸。
水爆実験後白い灰が舞った。南の島ロンゲラップ島の子どもたちは白い雪が降ったと喜んだという。
その後島民は、脱毛、嘔吐、下痢、発熱等の症状が出始めた。
同時に第五福竜丸の乗組員にも同じ症状が現れた。
島民は自主避難し、メジャット島へ逃げた。島民はそこで生活し始めた。漁をし、食物を栽培し、ヤシの実を植えた。
数年後奇形児が多発した。
58年目の今、アメリカより、メジャット島に逃げた島民に、元のロンゲラップ島へ帰還する話が出ている。(現在ロンゲラップ島の線量は0、02マイクロシーベルトだという)
たとえ避難したといえども、何十年もそこで生活するという事は、仮りの生活ではなくなり、そこに生きる基盤が出来るのである。
渡辺さんは言う。土建業者が入り、簡単に町を作り、生活が出来る状態を作るよりも、たとえ10年かかっても自分たちの思いを繁栄した町、いわゆるコミュニティーを作る事が、私たちのフクシマ後を生きることなんじゃないかと・・・
そして合意形成システム、納得民主主義を提唱する。



最後に渡辺さんの出身の屋久島の画像が映し出された。
屋久杉と苔と、屋久鹿・・・もののけ姫の舞台。
あのもののけ姫も伝えていたような気がする・・・「タブーを個々にもつコミュニティーの形成を〜。」

今本当に考えて行こう!本当に住み良いコミュニティーの形成について、そして本当の民主主義を〜。

by terada



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